Experiments of Actin

『インディーズ候補』(泡沫候補)の特徴的な選挙活動を中心に少し変わった選挙、政治関係の話題を取り上げているブログです。

備中高梁に行ってきた(その2)

かなり前に書いたまま放置していた、備中高梁旅行記の第2回です。

備中高梁といえば、前回にも述べたように備中松山城という大物が存在します。この備中松山城は昔の天守閣が今でも残っている現存天守という全国に12しかない城の1つであったりします。この備中松山城が他の現存天守と明らかに異なる点として、この城は山の上にある城、いわゆる山城である点です。

さて、この備中松山城ですが、山の上にある、つまり市街地からは多少、離れた位置にあります。歩きで行くと*1、結構な距離がありますが、途中、備中高梁を治め、備中松山城を再建し、茶人でもある小堀遠州が作った庭園がある来頼寺が存在します。この寺には戦国時代の備中松山城を拠点にした大名、三村家親、元親親子の墓もあったりします。

この来頼寺の先には、備中松山藩武家屋敷が存在し、中を見る事ができます。ちなみにこの武家屋敷ですが、写真に示した様に変にリアルな人形があり、さらには、この人形が突然、動き出すのもあったりして、そういう意味でもなかなか素敵な感じです。

そして、これらのポイントに寄っていき、さらに案内板の通りに備中松山城に向かっていきますと、だんだん傾斜が出てくる上に山が迫ってきて、山城に向かっている事が分かります。徒歩コースの城入口は車道から外れて、民家や畑があるエリアを通ります。そして、下のような写真の山道に突入するのです。

ここで、徒歩ルートと車ルートの違いを述べます。この山道を進むと、車が行ける限界の駐車場(とはいえ、バス停留所程度の感じですが)まで行く事が出来ます。そして、ここから先は車の人も車を降りて、さらに上にある山道を進む事になります。

そして、私は観光の地図上でこの駐車場まで行く山道は大した事がない、と何故だか、思いこんでしまったのですが、これが大誤算である事を知ります。朝御飯を少しつまみ、飲み物もそれなりに飲み、水分も携行したのですが、入口までの道が備中高梁駅から結構距離があり、さらには入口付近にお店的な物がなかったため、携行した水分を結構飲んでしまった状態で突入したのです。この判断は本当に誤りでした。日頃運動していないせいもある上に気温もなかなか高くて、この山道が辛い事辛い事。途中、休憩所で上がりまくった息をどうにか落ち着かせていますと、こんな石が。

このお城は色々あって、あの忠臣蔵大石内蔵助が来た事があったのですが*2、この大石内蔵助がここで休憩した際に座った石らしいとのこと。あの、大石内蔵助も予想以上の山道に苦戦していたのだろうか、と思いながら、さらに上に行くと、やっと駐車場に出ました。

ものすごい汗と息を上げながら、休憩所のベンチに座ろうとすると、そこには飲み物の自販機があり、相当量のスポーツドリンクを摂取し、携行用も購入しました。まさに地獄に仏とはこの事でしょうか。やはり、山を侮ってはいけないな、と思いながら、車ルートでどんどん来る人たちを見つつ、かなりの時間、休憩をし、さらに山の奥に入ります。

水分をちゃんと摂取したせいもあるのか、こちらの山道は結構、楽に行けました。そして、山道をどんどん行きますと、突如、開けた場所になり、かなり立派な石垣が姿を現わしました。正直、こんな山の中にこんな立派な石垣があるなんて、全くの予想外で、相当驚きました。これはちょっとアレな言い方ですが、山奥にこっそり設置した秘密基地みたいな感じがものすごくした事を付記しておきます。

さて、このような石垣がありますが、まだまだ、これは備中松山城の中央ではありません。ここから、さらに開けた石垣の部分をさらに上っていくと、城中枢の外縁に到達したのか、どんどん石垣や城壁が立派になっていきます。このように崖を利用した石垣が山の中に存在する上に、内部含めて、その石垣の立派さと城壁も相まって、ますます山の中の秘密基地っぷりが増してきます。

そして、このような山の中の秘密基地的なエリアを進んでいくと、ついに中枢に到達しました。かなり高い山の中にこんなに立派な城があったとは、とかなり感動な感じです。

さて、この天守の中に入る事が出来るのですが、建物の高さはそれほど高くありません。しかしながら、今までの山城と言えば、山の地形を有効利用する事が主眼で、施設としては申し訳程度な感じだと思っていただけに、山の上にここまで立派な施設が存在する事自体が驚異的な感じがしました。

ちなみにこの立派な施設が残った理由ですが、これはまさに山の中に存在していた、というのが理由であったようで、平地にある城と違って、城を破壊して、何かを建設する計画が無かった事*3やいちいち山の上まで行って、破壊するのに非常に手間がかかるという点であったようです。そして、昭和初期に修復しよう、という動きがあって、修復され、文化財として認められた、という経緯があるようです。

さて、そんな経緯のあるこの備中松山城ですが、実はこの現存天守が建っている部分は正式には小松山城という城であったりします。元々、この天守閣が出来たのは江戸時代で、それより前の戦国時代の備中松山城は、前述したような施設的にはイメージ通りの山城だったようです。そして、この時の本丸はこの天守閣が建っているエリアではなく、さらに奥にある大松山という山の上にあり、これを松山城と言うようです。この大松山城天守の裏から行くルートがあるようなので、天守が囲まれている塀のスペースから出て、奥に回る道を進みます。

道を進むと、途中の橋まではある程度の道がありましたが、そのうち草だらけの状態になります。ただ、ここを越えると、階段のようなものが現れて、登山道としての体をなしてきます。

この登山道を登っていくと、斜面に崩れかけた石垣の遺構が見え、ここにも何らかの施設が存在していた事を示しています。そして、さらに登っていくと相畑という、昔の大松山城を構成する拠点の1つらしく、広めのスペースがある場所に到達しました。

そして、ここから上に大松山城の本丸部分や水源があったりするらしいのですが、残念な事に帰りの電車までの時間が迫っており、それらに到達するまでの時間がまったくつかめなかった事から、そこに行く事は断念しました。また、次の機会があれば、ぜひ行ってみたい所です。

そして、来た道を再び通って、山を降りましたが、その山の入り口を出て、しばらく歩くと、尾根小屋の石垣のある場所に行けます。備中松山城は山のかなり高い所にあり、その機能は軍事要塞的な物であるため、この尾根小屋に藩主の屋敷や行政関係の施設が集まっていたようです。ちなみにこの尾根小屋の敷地には高校が存在しており、中に入る事はできません。

そして、慌ただしく駅に戻り、長い家路に着いたわけですが、やはり心残りとしては、大松山城の主要部分に行く事が出来なかった点と尼子氏の再興をしようとした事で有名な山中鹿之助の墓に行く事が出来なかった点です。また、次の機会を見つけて、備中高梁は再度行ってみたい所ですね。

*1:途中まで乗り合いタクシー的なバスで行くルートもあります

*2:当時の松山藩が跡取り無しで改易となって、大石内蔵助がその城の受け取りのために出向いたのです。この時、徹底抗戦を考えていた家臣を説得したらしい、という話があるようです

*3:実際、山の入り口付近の平地にある居住区や実際の政務をしたりする屋敷群は大半が破壊されている