Experiments of Actin

『インディーズ候補』(泡沫候補)の特徴的な選挙活動を中心に少し変わった選挙、政治関係の話題を取り上げているブログです。

村議会で催涙ガスが撒かれる

自治体の合併では、しばしばトラブルが起こる事があります。合併せず独自でやっていきたいとか、別の自治体と合併したいとか、満場一致、円満に合併するという事例は少ないように思われます。

今回、紹介するのは、そのような合併問題で揉めた結果、村議会の議場で合併反対派の村議が催涙ガスが撒いた挙句、村議会から逃亡し、警察などが村議の行方を追っていたという、驚くべき事例です。さて、その新聞記事を見てみましょう。

菅間村 合併問題で大もめ 議場に催涙ガス
筑波との合併案理由説明中 反対派議員投げる

筑波郡菅間村では三日午前九時四十分から役場二階で筑波町と合併を議決するため十六名の全村議が出席して村会協議会を開いたが、同九時五十分ごろ、古宇田助役が合併案の提案事案を説明中、議場南側の議員席でビンを割る音と同時に机がひっくりかえされ、催涙ガスが室内に充満、飯村堅一郎村長、桜井主税議長を始め、役場吏員、傍聴者など庁舎の屋根を伝って脱出したが、坂入甚左衛門議員(四八)はビンの破片で左足に全治十日間の裂傷を負い、この匂いをかいだ役場吏員桜井茂さん(四三)は卒倒。一時人事不省におち入り筑波町沼田小倉病院に収容、手当てをうけている。筑波書では午後四時、同村上菅間農古宇田英一議員(五三)に対し、傷害、公務執行妨害で逮捕状を出し、古宇田議員の行方を探していたが、自分も負傷したので、医師の手当てを受けたうえ、午後七時同村駐在所にて自首した。催涙ガスは市販の殺虫用クロール・ピクリン*1の二合ビン詰と判明。多数の人々がセキが出たり、目の痛みや嘔吐を訴えている。

茨城新聞 1956年(昭和31年)9月4日(一部句読点、強調など編集しました)

この事件は最近の事ではなく、50年以上も前の事件ですが、当時から町村合併にはトラブルがある、というか、昔の町村合併の方が、トラブル度が大きい事が分かります。催涙ガスが撒かれた挙句、議場内にいたほぼ全員が役場の屋根を伝って脱出とか、明らかに一般的なトラブルの域を超えています。このような事件が起きた理由として、当時、全国的に町村数が多く、町村を合併して効率化せよ、という国の方針から「町村合併促進法」という法が施行され、上からの高圧的な町村合併が提案されました。その結果、全国各地でトラブルが発生、そのトラブルの1つとして、菅間村では催涙ガス事件が発生したという訳です。この事はこの記事の続きからも分かります。

筑波署の調べによると、この日の急施村会協議会は隣村作岡村の住民投票に対応したするため、行われたものであるが議長を除く十五名の議員中、大筑波町との合併賛成派八名、反対派が七名で一気に筑波町との合併が議決される可能性が強く、反対派の古宇田議員がこの議決を阻止するため計画的に催涙ガス戦術を使ったものとみられ、共謀者もあるのではないかと、筑波署ではみている。この日は筑波分町地区から三百名、村民二百名が庁舎をとりまき、不穏の事態が予測されたので筑波、土浦、下妻、水海道など隣接各署から百名の警官隊が動員され警戒しているさなかの出来事で事件発生と同時に警官隊はスピーカーを通じて「断固として犯人を逮捕するから冷静になってほしい」と呼びかけ、村民を解散させた。
このため村会は自然流会となった。菅間村では去る四月三日にも村会議場内への投石事件があり、町村合併が再び流血の惨を引き起こしたものとして注目されている。

茨城新聞 1956年(昭和31年)9月4日(一部強調、句読点など編集しました)

催涙ガスが撒かれる以前に村民などが500人も村議会前に集結し、警官隊が地元の筑波署だけではなく、近隣の各署から合計100人も出動するという尋常じゃない事態になっています。その上、この事件の前にも村議会に投石事件があったりなど、合併を巡って、相当不穏な情勢になっていたことが分かります。

当時の町村合併における、このような過激なトラブルはこの菅間村に限った事ではなかったりします。栃木の桑絹村(現小山市)で1960年の村長選挙に202人も立候補した、という事件があったのですが、この原因もたどれば、「町村合併促進法」の町村合併のトラブルがこじれにこじれた結果でしたし*2、他の事例でも、例えば栃木の舟生村(現塩谷町)では500人の村民が村議会に突入し、村議会を制圧、流会を宣言させる、という事態に発展しています*3。このような事態以外にも数々の村がたくさんの村民を引き連れて、県庁に陳情したりなどとかなりのトラブルがあったようです。

ちなみにその後の経過ですが、古宇田議員の単独犯行であったものの、さらに村議1名の逮捕者が出る事態に発展しました。

背後関係は否認
菅間村の催涙ガス事件 古宇田議員を取調

筑波署では四日菅間村議会議場でクロルピクリンのビンを叩き割り、議場を混乱に陥入れ坂入議員らを負傷させた古宇田英一(五三)=同村上菅間議会議員=を引き続き高橋刑事係で取り調べているが、古宇田は犯行一切を自供。問題視されていた背後関係共同謀犯などについては強く否認している。古宇田はいわゆる慎重居士で議場での態度は最後まで検討することを怠らない努力家と言われ、今度の事件についても、あの人がどうして、と村民が驚いている。三日夜は十二時近くまで片岡議員外四名が筑波署を訪れ、事件が発生したのを陳謝したのをはじめ、約八十名が筑波署に押し寄せ、古宇田の釈放を陳情した。

茨城新聞 1956年(昭和31年)9月5日(一部強調、句読点など編集しました)

更に村議一名逮捕 菅間村の催涙ガス事件

筑波署では筑波郡菅間村村議会で発生した催涙ガス事件につき、先に逮捕した同村(注:原文では同町になっているが間違いか?)上菅間農古宇田英一議員(五三)の背後関係を取調べていたが、六日、古宇田の単独犯行で共同謀議ではないと断定した。古宇田は「筑波町との合併案を多数決で可決されてしまうので、思い余ってガスをまき、流会戦術をとった」と言っている。なお同署では五日夕、古宇田が議場へガスをまき混乱させた際、机を投げ、賛成派村議青木勝雄氏(四四)に一週間の傷を負わせた同村中菅間青木繁光村議(三三)を公務執行妨害、傷害容疑で逮捕した。今後の検挙は出ない見込みである。
茨城新聞 1956年(昭和31年)9月7日(一部強調、句読点など編集しました)

何と言うか、この新聞が村民から聞いた、慎重居士で努力家という古宇田議員の評価が正しいのだとすれば、合併を阻止できず、とにかくどうにかしたいという感情が暴走して、供述内容にもあるように思い余って催涙ガスを撒いてしまったんだなぁ、と思いました。

しかし、今回のこの記事などを読むと、昔の人は現在と比較して、一揆の如く、直接的な政治行動を良く取る、という事を感じます。このような行動が良いという訳ではありませんが、現在の政治問題もこれ位、動きがあると面白いのに、とは思います。 

*1:クロルピクリンは現在でも農薬として用いられている薬物ですが、もともとは毒ガスとして開発され、実際に使用された薬品であったりします。なお、クロルピクリン工業会の防災指針によると、大気濃度0.3 ppm以上で催涙により目を開けていられない、というデータが示されています。また、wikipedia:クロルピクリンのリンクも示しておきます。化学構造的に見ても、なかなかやばそうな構造をしていますね。

*2:実は今回のこの記事は次の同人のネタにしようと桑絹村村長選大量立候補事件について調べていた際に発見したネタだったりします。

*3:下野新聞 1956年(昭和31年)9月20日